このページについて
現代語訳にあたり
  • 法律の条文や役所の通達は原文のままでも意味は通じると思いましたが、「現代語」風に変換しています。そのため、原文の持つ風格は損なわれ、やや冗長な文章となっております。
  • 当時の文章は、文節が異常に長いので適宜「、」を入れました。文章の構造が分かるようにしたつもりですが、見た目は不自然に感じられると思います。
語句の選択について
  • 「施設」は現在では「建物」の意味で使われますが、この資料では「施策」「計画」の意味で使われているので「施策」としました。
  • 「適当」という語の現在の使われ方は「いいかげん」の意味合いが強いため「適切」に置き換えました。ただ、文中には「適切」という語もあるので、当時は使い分けていたと思います。
  • 「通牒」も一部残しております。「通達」ではあるものの、上下関係が厳密に定義されている語と思えます。
  • 「猖獗」(しょうけつ)は現在使われないので、文脈により「蔓延」「猛威をふるう」としました。
  • 「如何」は「〜かどうか」としました。
コマ番号・ページ番号について
  • 文中の [91四七九] などは国会図書館デジタルコレクションにおけるコマ番号・ページ番号です。
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  • *例えば [91四七九] はコマ番号「91」の「四七九」ページという意味です。その他 [92四八〇.四八一] はコマ番号「92」の「四八〇」ページと「四八一」ページに渡って、[91四七九~94四八四] はコマ番号「91」の「四七九」ページからコマ番号「94」の「四八四」ページまで、という意味になります。

[現代語訳] 日本帝国家畜伝染病予防史(大正・昭和 第一篇)

第二章 狂犬病の流行状況と防疫

第二章 狂犬病の流行状況と防疫 [91四七九~94四八四]

[91四七九]
 本邦における常在法定家畜伝染病として、大正年間より昭和年代の初めにわたり猛威をふるい、人畜衛生上に少なからず脅威をあたえたものは狂犬病の流行である。従って、これに対する予防上様々な対策が行われたことは、その苦心の跡から十分想像することができる。試みに明治三十年獣疫予防法施行以降の発生統計を揚げてみると左表の通りである。
[92四八〇.四八一]
 以上の統計から分かる通り、いかに大正年間及び昭和年代の初頭において狂犬病がその猛威をふるったかを知ることが出来る。本邦における狂犬病は、古来より引き続き発生しつつあることは既に前述するところであるが、更に記憶を新たにするため、明治三十年獣疫予防法施行当時の例によりその流行状況の概略を述べておきたい。つまり、明治三十年には東京付近に流行し、神奈川、埼玉、栃木、福岡、大分に流行して二六頭の発病があり、翌三十一年には更に長崎、岡山、広島、山口の諸県を加え、同三十三年にいたっては四八三頭という多さに達し、それ以後多少の減少はしたものの三十八年に入ると、神戸市から発生した狂犬病はその病勢を増し、前後三年にわたり被咬傷者、五〇二名、うち死者三五名。病犬四九頭を出し、四十年には樺太から凱旋した軍人が輸入した洋犬が発生源となり猛烈に青森県下に流行し、被咬傷者四七名、うち死者十一名を出し、同年北海道室蘭郡に初めて発生し猛威を振るい、ついに四十三年に至るまで病犬百数十頭、恐水病患者二一名を出すという惨状を呈したのである。また、四十年、四十一年には静岡県田方郡、駿東郡、富士郡、沼津町付近を中心として大流行し、病犬一三五頭を出した。更に同年、東京、神奈川、山梨各府県に流行し、四十二年には一層猛烈を極め、特に神奈川県においては、その数百数十頭という多さに達し、また、群馬、千葉、長崎、宮城の諸県下にも相当の被害が見られた。四十三年には更に長崎に流行したのを初め、岩手にも流行し、四十四年に入ると福島から発生し、一時は減少の傾向にあった東京府においては四十一年以来の未曽有の大流行となり、四十四年中の病犬四五二という多さであり、人畜の被害が続出した。
 大正年代に入ると、ますます蔓延し、大正元年には東京、神奈川、千葉、岡山、山口、兵庫、熊本等各地に散発し八○五頭の発生があった。翌二年には、さらに茨城、愛知、山形の諸県を加え、病犬一四九七頭、大正三年になると前年から発生しつつあった兵庫、茨城、栃木、愛知、山形、宮崎諸県の流行はその勢いを増すだけでなく、四十二年は終息状態にあった北海道にも再び発生し、更に新たに京都、大阪、岐阜、長野の諸府県に侵入し、一四八一頭の発生を見た。特に大阪においては、同年夏季から発生して翌四年に入ると大流行し、その数は五百余頭(大正三年二一四、四年三○八)を突破して人畜の被害が夥しく、流行が止む事は無いと思われるほどだった。従って政府としても民間においても必死の対策に努めたことはいうまでもない。幸いにも効果が見られ翌大正五年には小康状態となった。
 当時農商務、内務両省は各関係局長連名の下に次の通り(一)(二)の依命通牒を発し、防疫の督励及び警戒をしている。
狂犬病の予防に関する依命通牒

(一)

農第九四二三号 大正三年十二月八日

農務局長
衛生局長

北海道庁長官。警視総監。京都、大阪、神奈川、兵庫、埼玉
群馬、千葉、茨城、栃木、奈良、愛知、山梨、岐阜、長野、福
島、山形、大分、熊本、宮崎、鹿児島 各府県知事宛

 狂犬病の予防制圧については相当対策を講じておられる事とは存じますが、近来ますます蔓延の兆しがあり、公衆並びに獣畜衛生上において見逃すことができないと考えております。そのため、一層のご配慮のうえ、なるべく速やかにその撲滅のための対策を行われるように御願い致します。以上、通牒致します。

 追って、右の予防制圧に関し、左記の事項をご参考までに申し添えますので、よろしく御斟酌のうえ有効な方法を実行下さるよう御願い致します。

[93四八二.四八三]

  • 一般向けに衛生講和を行い、または印刷物を配布し狂犬病の危険、予防その他について、一般の人々に対し注
    意を喚起すること
  • 所有主のある畜犬と所有主の無い浮浪犬とを明確に区別する方法を施すこと。
  • 畜犬は、畜主により狂犬病流行中はなるべく繋ぎ留めるか、その他の方法により他の犬と接近させないこと。
  • 浮浪犬は、これを一掃する目的で捕獲し、適当な処置をすること。
  • 狂犬病の疑いのある畜犬を鎖で繋ぎまたは隔離した場合には、少なくとも十日間、時々検診を行うこと。
  • 狂犬病の発生については、その都度速やかに流行の系統等を調査し、適切な措置を講じること。
  • 狂犬病に罹り、またはその疑いのある犬に咬まれた者がある場合には、直ちに最寄りの警察署に行き指示を受
    けること。
  • 死んだ犬については、なるべく検査を行った上で相応の措置を講じること。

(二)

同 号  同 日

農務局長
衛生局長

長崎、新潟、三重、静岡、滋賀、宮城、岩手、青森、秋田、福
井、石川、富山、鳥取、島根、岡山、広島、山口、和歌山、徳
島、香川、愛媛、高知、福岡、佐賀、沖縄 各県知事宛

近来、狂犬病が各地に発生流行し、病毒はますます蔓延しており、公衆衛生並びに獣畜衛生上の危険が少なからずあることから、現在発生している府県に対し別紙写しの通り通牒しておりますが、貴県においても相当の警戒をされるよう、このことについて通牒致します。

 しかし、大正六年には更に関東地方に流行し、大正七年には東京、神奈川、埼玉、群馬、千葉、山梨、広島の各地に流行し、大正八年には鳥取、岡山宮城、奈良、岩手の諸県を襲い、それ以後ますます猛威を振るい、大正十年には九二二頭、大正十一年には一〇四八頭、さらに翌十二年には一挙にその二倍以上に増加し二七〇二頭に達し、翌十三年には一層増加して三二七七頭、十四年三一六八頭、十五年には一八二九頭の発生となりました。特に大阪、兵庫、神奈川等は大都市及びそれに隣接している県に頻発したことは、犬が密集していることがその一原因となっていることは勿論のことで、試みに大正十二年の二七〇二頭の発生中、大阪は一三三八頭と、その半数を占め、神奈川二九五頭、東京一二六頭、兵庫一六七頭とこれに続いており、その被害はますます拡大する状勢となっています。
 これに対し、政府はこの予防上、大正十一年家畜伝染病予防中、特に犬の取り締まりを厳重にし、さらに大正十二、十三年の大流行をふまえ、これを制圧する上で、従来狂犬病の過半数は野犬であった事実を考慮し、畜犬の整理を行い、無届犬を無くし、野犬を徹底的に掃討することが重要であるとし、大正十二年十二月五日及び十三年四月十四日付畜産局長名をもってこれに関する警告を各地方長官に発すると共に、既に大正初年本病の流行がますます猛威を振るおうとする際、この禍根を断つためには犬の個体に免疫を持たせることが不可欠であるとの見解の下に、獣疫調査所において技師近藤正一に対し、この予防液製造の研究を担当させ、大正四年一月着手、同九年五月に創製した、いわゆる近藤式として有名な予防液の応用を一層普及させることに努めました。
                    

一 狂犬病予防に関する通牒

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(一)

畜局臨第一三〇〇号 大正十二年十二月五日

畜産局長

各地方長官宛(東京府は警視総監)

最近、狂犬病の発生区域が次第に広汎にわたり、本年十月末までに既に二十三県となり二千三百余頭の発生がある。前年と比較し、発生している府県に

[94四八四.四八五]

おいても、発生数において一千三百頭と激増しており、人畜並びに保安上憂慮する事態となっているのみならず、欧米文明各国と肩を並べる国家の対面上からも誠に遺憾とするところであります。しかし、各地の流行の状況を見ると、病畜の過半数は野犬であり、従って本病毒の伝播は、多くの場合これら野犬が咬むことによって起こると思われるので、この際、流行している地方においては一層野犬の掃討、畜犬の繋留、口網箝口の励行に努められ、未だ発生していない地方においても平時において畜犬の整理、野犬の掃討など、犬の取り締まりを厳重にし、それにより病毒の侵入を未然に防ぎ、速やかに本病の根絶を計られるようにしたいので、このことについて通牒致します。

 追って別紙により、最近三箇年地方別狂犬病発生頭数表をご参考までに添付致します。

発生頭数表(略)

(二)

畜局第一五〇七号 大正十三年四月十六日

畜産局長

各地方長官宛(東京府は警視総監)

 狂犬病予防に関しては、昨年十二月五日附、畜局臨第一三〇〇号により通牒しましたが、これ以降、地方によっては多少その発生数の減少があり、或いは全く発生しなくなった地方もあるものの、一方では新たに発生の区域が拡大しますます増加の傾向を示し、全体的には例年にない発生が拡大する状況となっています。この状況から考えると、年々多数発生する時期である晩春、初夏の頃に入るとその被害の程度はまさに戦慄すべきものがあると考えられます。従来、防疫の成績が予想通りに運ばない地方をみると、大体のところ予防注射にのみ頼り、畜犬の整理や野犬の掃討において徹底を欠く傾向があります。結局のところ、本病の防疫には野犬を徹底的に掃討することを基本とする必要があるので、この際、この方面に主力を尽くすとともに、本病の根絶に対してご配慮下さるよう、このことについて通牒致します。

 追って、別紙、最近における狂犬病発生状況を、ご参考までに添付致します。

(最近における狂犬病発生状況)

[95~97] [95四八六.四八七]

二 本邦における狂犬病予防液の研究

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 農林省は前述したように、大正十一、十二年の狂犬病の大流行に鑑み、畜犬の整理、野犬の掃討について各長官に対して指示をすると共に、大正初年以来、獣疫調査所技師近藤正一に予防液の製造研究をさせ、同九年、ついに、現在では内外の評価が高まりつつある、いわゆる近藤式防液の開発に成功するに至った。当時は、欧米を通じて、家畜の予防接種法としては人体に準じ、パストール法及びヘギエス法の少数の実験的応用があるに過ぎなかった。家畜の予防接種を実際的に広く応用するようになったのは、大正八年(一九一九年)以降、日本における家畜用予防液の開発によって実用の域に入ったということができ、本邦において最初に比較的多数の犬に予防接種を試みたのは、大正四年(一九一五年)押田徳郎による新鮮固定毒濃厚乳剤三―六回注射法から始まり、次に梅野信吉は濃厚乳剤二回法が効果があることを発表した。近藤獣疫調査技師は大正四年以来の研究により新鮮濃厚毒は危険を伴うことから減毒液を用いるべきだと主張し、大正九年、実験的に、危険が無く廉価であるという理想的予防液の調整に成功した。つまり、近藤技師法が特に優秀であると認めるべき点は、従来の予防液は全て狂犬病固定毒に罹患させた家兎を材料に用い、その脳脊髄を原料としたのに対し、近藤は犬を材料に用い、つまり、被注射犬に
 対し同質材料を使って調整した結果、異種蛋白の心配もなく、かつその量的関係からみても犬は兎よりも遥かに多量の脳脊髄原料を採集することが出来る。従って安価に供給できるという利益がある。更に近藤氏調整法の最も優秀といえる特徴は、減毒法が簡易確実という点であり、従来の室温、氷室温、あるいは理化学的操作による方法と異なり、孵卵器を用いて摂氏三七度、七二時間加温減毒するものであり、その方法は非常に簡易であり、また予防液としての効力を確実に一定させるという利点があり、現在は海外においても、北米、独(ドイツ)、墺(オーストリア)、匈(ハンガリー)、葡(ポルトガル)のように、徐々に日本法として近藤氏法を採用するところが少なからずあり、世界的な開発という価値のあるものであり、本病の予防上、画期的なものであることは勿論のこと、世界の学会に貢献したという点でも我等の誇りとするところである。つまり、我が近藤氏法は、狂犬病固定毒に罹患させた犬の脳脊髄を無菌的に採取し、その石炭酸グリセリン水(石炭酸0.5%、グリセリン5%)五倍乳剤を孵卵器に入れ三七度七二時間の減毒を行ったものである。 まさに、押田、梅野、近藤の三氏は本邦狂犬病予防上の大成功者であると同時に、その業績は世界的学会の誇りといえるものです。
 さて、人体予防液においては、かの有名なパストールが一八八〇年初めて開発したのであって、まさに我々人類に対する大恩人である。左に少し同氏の本液開発に関する経緯を述べて敬意を表することにしたい。
[96四八八.四八九]
 今を去る五十余年の一八八〇年のある日、一人の獣医師ブーレルから二匹の狂犬病犬をパストールの実験室に送って来たことが始まりである。まずこの狂犬の唾液を兎に接種し、この病原が占居するところは中枢神経系にあることを確かめたばかりでなく、その培養が不可能な事実を確定し、この脳脊髄を減毒することにより免疫の目的を達成したのである。まず、兎から兎へ病毒を感染させ、兎に対する毒力を極度に増加させた。こうして得た毒を固定毒と呼んで、狂犬から直接に採取したままの市街毒と区別したのである。そのようにした兎の脊髄を無菌的に採取し、温室中にて乾燥する方法を考え出し、実用的な減毒病毒を作り上げたのである。つまり、この兎の脊髄を八日間乾燥させることにより、その発病能力が半減し、一四日間乾燥させると全く無毒となり、かつ免疫の効力があることが判明した。こうして出来た減毒病毒により処置した幾十もの犬が狂犬病毒に対して完全に免疫を持っていることが文部省の調査委員の手によって立証され、一八八四年八月八日コペンハーゲンの万国医学会にパストールによって発表されることとなったのである。しかもパストールがこの接種液をいざ人間に応用するという段になると非常に躊躇したのであるが、人への予防接種は一八八五年七月六日、当時九歳のヨセフマルステルに、その母の懇望によって初めて行われたが、一〇回の注射が終わるまでは夜も眠らずに心配したということである。
 こうして我等人類の予防接種は開始され、それ以後幾多の貴重な人命を救助した勲功は、ついに欧州全体をゆるがし、膨大な資金が集まり一八八八年、パリの一九区ヂュトー街に立派な今のパストール研究所が出来上がったのである。以降、はたして幾千の人命を救ったか、先頃にも有名な炭疽予防接種法を発見して世界の人畜は無限の恩恵を受けたのである。まさに世界的科学者として我等の絶大な尊敬を受ける所以である。著者は、昭和十年五月、ヂュトー街パストール研究所内にあるこの偉人の墓に詣で、さらにパリ郊外ガルヘにある旧研究所に行き、彼が最後まで親しんだ質素な臨終の部屋を訪れ
(写真)
[96四八九]
故人の面影を偲んだ。
(犬体用狂犬病予防液に関する調)
(人体用狂犬病ワクチンに関する調)
[99四九三]

三 狂犬病予防週間の実施[99四九三~141]

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(一)狂犬病予防週間実施の沿革

 野犬掃討、予防液の応用普及等、政府の督励と地方庁の努力も、我が国における犬の飼養状態及び民情の現状を考えると、緩慢な方法手段ではその成績はむしろ期待している結果を得ることができず、狂犬病の流行は益々拡大する兆しを見せており、病犬は街路に横行して危険が甚だしく、人畜の衛生上からようやく物議を醸すようになった。本来、犬は古い家畜であって既に有史以前に人の伴侶となった記録もある。欧米の牧羊国においては牧羊犬として、また南北両極に近い寒国においては橇用犬として牛馬等よりも重要視されている。このほか、どの国においても愛玩用として飼育されているほか、狩猟犬や番犬として利用され、また、イギリス、ドイツ、フランスの
[100四九四.四九五]
 諸国においては十八世紀の頃までに犬の特性を利用して警察犬として刑事上の捜索に利用し、あるいは軍用犬として使用した歴史がある。特に、一九一四年バルカンの一角に端を発した欧州大戦に際しては、ドイツ、オーストリアの両国が共に組織的訓育を施し軍用犬として実戦に参加させ、目覚ましい戦績を収めた。英、仏、米、伊の聯合軍においても、これに倣い急に軍用犬を養成して実戦に応用するに到った。
 我が国においても、昭和六年満州、上海事件に際して初めて軍用犬を利用し、常時板倉大尉が訓練したセパード種犬三頭は奉天大営の攻撃に際し勇敢な活動をしたことは有名な史跡であり、うち二頭はついに戦死を遂げた。それ以降、満州各地の匪賊討伐に際しては必ず犬が参加し戦功をあげていることは既に新聞紙が報道しているところである。結局のところ、犬は先天的に人に対して従順で親和性に富み、他の家畜と比べて遥かに怜悧であり、よく自己の職責を重んじ、時として自分の身命を投じるという忠実さがあるのである。また、その視力、嗅力、帰趨性等が特に発達し、敏捷、軽快、そのうえ警戒心が強く、みだりに他人に慣れないことなどの性質は、畜主が更に親しみを持つことになり、また、将来、様々な犯罪事件や戦争において益々機械化されることに伴い、これ等の特性が国防上、保安上から一層有効に活用されると思われる。
 私達の、犬に対する愛は以上述べたような特性によって自然に醸成されるのであるが、それが又、ともすると無理解による野犬の保護につながるのである。この無理解な保護が狂犬病予防上には一番の禁物であって、野犬を掃討する上において、しばしば隠蔽が行われ、また、野犬の仔犬でさえも、それが成犬になるまでは密に保護養育することがあり、特に我が国には、欧米では一般的に行われている畜犬を繋留、牽行、箝口具を装着するという習慣が無く(箝口具は警視庁において一時施行された事があるが遂に成功しなかった)また、一般的に衛生思想が未熟なために犬の予防注射を嫌う傾向があるなど、要するに誤った愛による行動であり、いたずらに野犬の増殖をあえてする行為であり、真に家畜としての犬を愛するものとは認められないのである。また一面では、日本式建築物の床下は常に野犬の好適な隠れ場所ともなっており、生け垣造りの庭園や屋敷は野犬の潜入逃走が容易であることなど、防疫の成績が思うようにならないのは、要するにこれらのような誤った犬の愛護と衛生的無理解と日本式住宅が彼等の絶好の逃れ場所であるからである。従って、狂犬病の予防を徹底させるためには、まず一般国民に対して、この誤った犬の溺愛を指摘し、真の動物愛護の精神を涵養することに基礎を置かなければならない。ここに、政府は種々考究し、大正十四年五月、地方家畜衛生主任官会議を農林省に招集し、この予防上の協議を行い(狂犬病予防上野犬並びに届け出無き畜犬の根絶を計る方法如何)という諮問を行い、次の答申を得た。
  • 一、野犬掃討に要した費用に対し、血清類購入または製造費の補助と同様、国費による補助が必要なこと
  • 一、一定の期間を定め、犬の買い上げを行い、かつ平時において不用犬を無償提供させること
  • 一、狂犬病予防に関する知識の普及を図るため、種々の宣伝方法を講じ、かつ予防週間を定めて予防方法を実施すること。
  • その他略。
 これにより、農林省は大正十四年度予算に野犬掃討費六万円を計上するとともに、予防週間を設けて狂犬病予防上の理解に努め、真の動物愛護の観念を広めるとともに、その間、各種の防疫手段を推進して官民が一体となりその遂行に努めた。こうして、大正十四年度においては予防週間区域を関東、関西及び九州に分け、各々異なった期間に行われた。これは、本邦における狂犬病予防週間実施のさきがけであり、その成績はいずれも大いに見るべきものがあり、予想以上の効果を収め、流行はそのためようやく沈静するに至った。従って、翌昭和二年及び同三年においては、引き続きこれを全国一斉に実施する方法を講じ、なお昭和三年においては御大礼関係地方に対し特別に一回(合わせて二回)実施させた。今、その第一回以来の実施月日及び地方を以下に示す。この予防週間計画は農林技師布村繁が発案したものであり、同氏の功績は狂犬病予防史上に
[101四九六.四九七]
輝かしい一ページを飾るものである。もっとも、兵庫県においてはこれより以前、既に大正十五年四月、当時の県技師濱周謙により、神戸市において予防週間を施行し、予防注射の普及、野犬の懸賞附買い上げ、パンフレットの各戸配布等が行われ、また、同六月には飼犬取締規則を改正し予防注射済のものに限り飼犬の資格を与えること、及び年一回の定期注射を受けさせるなど、狂犬病の撲滅に努めつつあったのである。よって濱技師は地方における予防週間の率先者であるといえるのである。

(二)狂犬病予防週間実施地方及びその期間調

(狂犬病予防週間実施地方及びその期間調)

(三)狂犬病予防週間に関し農林省実施工作

(一)第一回、関東地方(東京、群馬、千葉、埼玉、神奈川)
(い)予防週間実施上協議会の招集

畜局第一七六四号 大正十五年七月六日

畜産局長

警視総監、群馬、千葉、埼玉、神奈川、 各県知事宛

 最近における狂犬病の発生並びにその流行に鑑み、その予防上遺憾の点少なからずと認められるので、この際一層本病予防の徹底を期するため、さきに家畜衛生主任会議において決議したところである。差しあたり第一回の試みとして関東諸府県(群馬、埼玉、千葉、東京、神奈川)聯合し、狂犬病予防週間を開催するよう致したいので、貴庁においても然るべく御配意のうえ、之れが実施期日並びにその方法等協議のため、本月十二日(午前九時)関係職員派遣いただきたく、この件について照会致します。

追って協議に関する内容、参考のため別紙添付候

別紙
  • 一、実施見込期日   八月一日より七日間
  • 一、実施期間前行うべき事項
    • 1 期間中一般心得べき事項を周知させる方法を講ずること
    • 2 関係職員を召集し、前項の期間中行うべき事項に付き打合せをすること
  • 一、期間中行うべき主な事項
    • 1 届け出の励行
    • 2 畜犬の繋留
    • 3 畜犬飼養管理改善に関する知識の普及
    • 4 狂犬病予防に関する知識の普及
    • 5 野犬の掃討
[102四九八.四九九]
    • 6 浮浪犬または不要犬の提供
    • 7 予防注射済区域内における注射済畜犬の調査並びに注射
  • 一、期間後行うべき事項
    • 期間中における成績及びその感想を交換し、それにより次期週間実施において効果が出るようにすること
(ろ)予防週間実施協議会決議事項(大正十五年七月十二二日開催協議会)
  • 一、施行期日  八月一日 ― 八月七日
  • 二、実施期間前行うべき事項
    • イ、「ポスター」「ビラ」「パンフレット」による宣伝
    • 「ポスター」には農林省後援、関東聯合府県主催狂犬病予防週間の文字を記入し、あわせて、期間中行うべき実施事項を表示すること。なお、宣伝方法として特に電車内に「ビラ」等を掲載すること。
    • ロ、新聞掲載
    • 狂犬病に関する一般知識、人畜被害統計、予防週間実施の趣旨及び事業等掲載
    • ハ、「ラジオ」放送
    • 週間前は、農林省において狂犬病の概要及び週間実施の趣旨放送。
    • ニ、講話
    • 特に、小学校、女学校において、校長または受け持ち教師より、生徒に狂犬病の概要及び予防週間の趣旨を講話すること。
    • ホ、飼養犬の戸口調査
    • なるべく警察部関係にて戸口調査を行い、できれば同時に「ビラ」を配布すること。市町村吏員、小学校生徒、青年団などを応援させることもできる
    • へ、関係者の打合会開催
    • 警察署長、衛生係巡査、技術員等を召集し、十分本趣旨の徹底を計り、週間中における各自の部署を定め、その徹底を期すること。
  • 三、期間中に行うべき事項
    • イ、畜犬繋留の強調
    • ロ、畜犬の届け出並びに整理
    • ハ、犬の買い上げ
    • ニ、野犬の掃討
    • ホ、予防注射
    • へ、宣伝
    • 飛行機、自動車宣伝、屋内、路上、露天宣伝、活動写真、浪花節その他。但し、飛行機宣伝の交渉は農林省から直接、陸軍対して行っていただきたいこと。
  • 四、期間後行うべき事項
    • イ、期間中の成績を取りまとめ本省に報告すること。
    • ロ、本省においては各府県の報告を一括して聯合府県に通報、及び新聞雑誌に掲載いただきたいこと。
    • ハ、来年五月初旬、第二回予防週間開催のこと。
(は)予防週間実施に付き、関係地方へ通牒

畜局第一七六四号 大正十五年七月十四日

畜産局長

警視総監、関係県知事宛

[103五〇〇.五〇一]

 さきに御照会致しました狂犬病予防週間実施方に付いては、本月十二日、本省において協議会開催の結果、別紙の通り議決されました。右各項実施は狂犬病予防上極めて適切の事項と思いますので、この実施に付き、特にご配慮をいただきたく、念のため、この件について通牒致します。

 追って、右決議中「ラジオ」放送、及び飛行機宣伝に付いては本省より直接関係当局に交渉のうえ何等かの通知を致しますので申し添えます。

別紙 略

(に)予防週間実施に付き「ラジオ」宣伝に関する関係地方への通知

畜局第一七六四号 大正十五年七月二十七日

畜産局長

警視総監、関係県知事宛

 七月十四日付、畜局第一七六四号を以て狂犬病予防週間実施に関する件を通牒致しましたが、「ラジオ」放送の件は、本月三十一日午後六時半より「狂犬病について」との演題の下に山脇農林技師により講演させることに決定いたしましたが、陸軍飛行機による宣伝の件に付いては目下陸軍において教育並びに演習等の都合により、本省の希望には添えないということであり、右ご諒解いただきたく、この件について通知致します。

(ほ)予防週間実施中督励電報の発送

畜局第一九九〇号 大正十五年八月二日

畜産局長

警視総監、関係県知事宛

狂犬病予防週間にあたり暑さの砌ですが、予期の効果を挙げるため一層の努力を御願い致します。

(二)第二、三、四、五、六回地方聯合及び全国一斉予防週間の実施内容、及び手続きは全て第一回と大同小異に付き、略す。
(三)大正十六年度より定期狂犬病と脳週間実施に関する件

畜第五三六七号 大正十五年八月三日

畜産直腸

各地方長官宛(東京府は警視総監)

 狂犬病予防に関しては、従来各種の方法により、この予防制圧に努めつつありました。特に本病予防に関する知識の普及を計るとともに、各地一斉に畜犬の整理、野犬の掃討を行うことは本病予防制圧の上で最も緊要なる事項であり、さきに第三回家畜衛生主任会議において予防週間設置に関する決議をしたところであるが、なお本年四月二十日畜第二九五七号により、補助金交付要項を通知しておいたので、明年度以降においては毎年期日を定め全国一斉に狂犬病予防週間を実施し、そうして野犬掃討、その他狂犬病予防の徹底を計るようにしたいので、つきましては、これに要する県費、その他必要な事項等を、それぞれご配慮くだされたく、このことについて通知並びに照会致します。

追って、予防週間施行に関する事項、並びに方法等、その細目にわたり御協議を要すべき点が多々あると思われるので、このことについて念のため申し添えます。

(四)狂犬病予防週間に関する農林省の実施工作概括

(五)狂犬病予防週間実施に関し地方庁において行なわれた事項概括